前回お話ししたRマンション事件が和解終結にさしかかった頃、早速次の相談が持ち込まれたのがWマンション下到津でした。
Wマンション下到津
Wマンションは全184戸、11階建、分譲開始は昭和58年(A棟)から59(1984)年(B棟)でした。
このマンションの敷地は、一筆の土地で面積は5283・19㎡、その上にA棟、B棟の住居棟以外に昭和58年に新築登記のなされた駐車場建物が存在し、登記上は「平屋建」、総床面積は1089・10㎡、集会室、機械室などの部分を除いた床面積961・69㎡について、分譲業者T社の所有権保存登記がなされていたのです。
そして分譲業者は、本件マンション建築以来、本件駐車場の1階部分を46区画、2階部分(屋上)を60区画に線引した上で、1階部分は一区画を月額賃料11,000 円で、2階部分(屋上)は一区画を月額賃料7,000円で、本件マンション内の区分所有者や、さらには近隣の銀行等に賃貸しており、月総92万6,000円、年額1,111万2千円にも及ぶ多額の収益を上げていたのです。
敷地利用権
当時このマンションの管理組合理事長は土地家屋調査士Hさんで、いわば不動産の専門家であり、この方から「うちのマンションはおかしいのではないか」と相談が寄せられたのです。内容的には敷地の共有持分のことでした。
通常のマンション(区分所有建物)の敷地は共有となっています。
そして各区分所有者の持分割合は、個々の区分所有者の所有する居室部分(専有部分)の床面積を分子、全区分所有者の居室部分(専有部分)の床面積を合算した総床面積を分母として登記されています。
このWマンション下到津でもそのように登記されていました。
少し法的に細かいことになるのですが、このWマンション下到津の分譲開始は先にも述べたとおり昭和58年(A棟)から59年(B棟)にかけてでしたが、この頃マンションの基本法である区分所有法の大改正があり、この法律による規制が敷地にも及ぶようになり、登記制度も大改正されたのです。
このとき導入されたのが「敷地利用権」という考え方です。各区分所有者は居室部分(専有部分)の床面積に応じた敷地共有持分を有することによって、「敷地利用権」を有していると考えるのです。
ところが分譲業者T社は、床面積961・69㎡にも及ぶ駐車場建物を所有しているのに、分譲完了後は敷地について、共有持分を有していなかったのです。
そうだとすると、T社は敷地の共有者でもないのに広大な床面積の駐車場建物をなぜ所有しているのか、敷地の共有者の団体である管理組合に地代を払うべきではないか、地代を払わないのなら駐車場建物を撤去すべきではないか。
提訴するまで
私はHさんの疑問は尤もだと考え、裁判を起こす準備を始めました。
前回お話ししたRマンション事件は5人(後に一人抜けて4人)の弁護士、その前年の飯塚の事件も二人で取り組みましたが、マンション事件の実態は集団訴訟だと思っていたので、当然複数の弁護士で取り組むべきだと考えていました。しかしRマンション事件の弁護団の先生方に打診してみても、もうマンション事件はやりたくないという雰囲気を滲ませています。
その理由の多くは、夜間や休日に理事会や総会を開き出席しなければいけないことにあったと思います。
私としては東京での弁護士時代に労働事件ばかりやっていたから、この種の会合に出席することはそれ程苦痛ではなかった、〝管理組合と労働組合は似たようなもんだ〟です。
しかし弁護団は確保したい。そこでRマンション事件弁護団のうちやってくれる可能性があると思われた中村仁先生に狙いを定め、提訴決議の総会(平成元年9月)には一人で出席し、訴状も既に作ってしまい、「代理人就任いいですよね」とうまくだまして平成元(1989)年11月提訴したのです。
裁判の経過
裁判では、T社を被告として、①駐車場建物の収去土地明渡と、②その間の地代相当損害金を請求しました。
しかし裁判は随分と時間がかかり、福岡地裁小倉支部が平成5年3月17日判決、T社が控訴し福岡高裁平成7年12月26日判決、さらにはT社は最高裁に上告して上告棄却となるまで提訴から8~9年かかっています。
結論的には、①駐車場建物の収去土地明渡は権利濫用として認めず、②地代相当損害金として6200万円ほどの支払いをT社に命じました。
現実的には1千万以上の遅延損害金が付いており、これが大きかったと記憶しています。
なおこの判例については、中村仁先生が『わかりやすいマンション判例の解説』(初版)で解説しています。
裁判のその後と思い出
勝訴が確定し、理事長を続けていたHさん、中村仁先生と三人で祝勝会をし、当時常連になっていた二次会の場で成功報酬の話になり、想定を超える額をHさんが「いいんじゃないですか」と言ってくれ、とても嬉しかったことは記憶に鮮明です。
またこの事件と次に取り組んだNマンション事件をきっかけに、理事会だ、総会だ、打合せだといっては夜な夜な中村仁先生と飲むようになった。思えば本当に若かった、提訴した頃はまだ30代だった。
もう一つ、この事件をめぐっては変な話があります。
福岡地裁小倉支部での審理は、実質的に2年くらいで終わり結審したのですが、その当時の女性の裁判長が判決当日になって判決言渡しを延期することを何度か繰り返したのです。
マスコミもこの事件には注目しており、何回目かの判決当日延期にマンション建物の撮影もしていたテレビ局が怒り、民事訴訟促進を言っている裁判所自身がこれではおかしいと騒ぎ出して、女性裁判長にインタビューしようと裁判所構内をうろつきまわるという事態になったのです。
私に女性裁判長から出て来いという電話があり、慌てて中村先生とともに行くと、「マスコミの動きを止めなさい!」という怒声。裁判官室を出て中村先生と二人で「アハハ!」「自業自得!」と声を出さずに笑ったこと。
ついでながらさらにもう一つ、管理組合は判決に基づくT社に対する債権で、駐車場建物の所有権を取得するという形で最終決着しました。